プログラム・ノート


高円寺地域センター30周年特別公演

2018年7月8日(日) 14:00開演

執筆:中田麗奈

 

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」

 

モーツァルトの交響曲第40番は、天才モーツァルトの作曲した音楽の中でも最も有名な曲の一つで、冒頭のメロディは、きっと皆様もどこかで聞いたことがあるのではないかと思います。全部で25分ぐらいですかね。クラシックの曲は、長い曲が多いです。年末によく聞く第九、ベートーヴェンの交響曲第9番ですが、あの曲はゆうに1時間を超える程の長さです。テレビの歌番組に出てくる歌手の曲は短いですよね。だいたい長くても5分ぐらいでしょうか。どうして、クラシックの曲は一曲がそんなに長いの?ということもあとでご説明しましょう。

 

さて、杉並区とモーツァルト、実はちょっとした縁があるのです。とはいっても、モーツァルトが実はその昔、日本に来ていて今の杉並区のあるところに滞在していた!というようなものではありません。流石にそれはビックリですよね。では、どういう縁があるかというと、それが冒頭のセリフに繋がっていきます。杉並区は大正の終わりから昭和にかけての時代、多くの文学者が住んだ町です。川端康成、太宰治、梶井基次郎・・・そんな一人に、小林秀雄がいます。小林秀雄、ご存知でしょうか。小説家ではなく、評論で活動した人でした。評論家と呼んでしまうと、イメージがちょっと違ってくる感じもあります。日本において批評というジャンルを確立し、日本の文学界に大きな影響を与えた人でした。1902年、明治35年生まれ。生まれたのは神田です。その後に何度か引っ越しを重ね、大正13年、22歳になる頃に、杉並に引っ越してきます。その頃は杉並村だったようです。東京府豊多摩郡杉並村馬橋226番地。このころは村だったのですね。この年の6月に杉並町(すぎなみまち)となります。馬橋は高円寺地域センターから少し離れていますね。高円寺駅の向こうでしょうか。その辺りに、小林秀雄は引っ越してきたのです。このころの小林秀雄はまだ学生で、文芸活動は繰り広げていたものの、まだ無名の若者でした。杉並に引越してきた翌年、今度は当時付き合っていた女性と一緒に住む為に、天沼に引っ越します。天沼はここから少し遠くなってしまいますね。荻窪のほう。そしてその翌年には逗子に引っ越してしまいます。このように、決して長い期間ではないのですが、小林秀雄は杉並に住んでいました。この小林秀雄の代表作『モオツァルト』を片手に、モーツァルトと彼の交響曲第40番を紹介していこうと思います。

 

1946年12月、日本が戦争に負けた直後、まだ戦後の焼け野原が残っている頃ですね、小林秀雄は一編の批評を発表します。それが『モオツァルト』。そこで小林は、モーツァルトの人生とその音楽を自らの想いを絡めて、非常に魅力的に文章にしていきます。その頃、小林は44歳。脂の乗り切った、というか、批評家として活躍するに、非常に良い年齢に達していたといえるでしょう。小林はこんなことを書いています。

 

「もう20年も昔のことを、どういうふうに思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望とか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざの言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。ともかく、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄(ふる)えた」

 

いかがでしょうか。ここで述べてるト短調シンフォニーとは、まさにこの交響曲第40番のこと。小林は、若き日に受けた衝撃を思い返して文章にしています。このような経験、みなさまにはありますでしょうか。ある時、ふと、思い出して頭の中の音楽に心を打たれる。それがクラシックでもロックでもジャズでも歌謡曲でも、そのような経験をしたという方は、すくなからずおられるのでは、と思います。小林は、この、突然思い出したこの音楽に非常に強い衝撃を受けて、モーツァルトについて考えを巡らしていきます。小林はこう書きました。「内容と形式の見事な一致というような尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異なる二つの精神状態のほとんど奇跡のような合一が行われているように見える。名付け難い災厄や不幸の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現すことができるのだろうか。それがすなわちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さとか純粋さというものなのだろうか。ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った。その悲しさは、透明な冷たい水のように、僕の乾いた喉をうるおし、僕を鼓舞する、そんなことを思った」何を言ってるのか分かるようで分からないようでもありますが、でも、なんだか、小林秀雄がモーツァルトのこの交響曲に強く心を打たれたということは、確かに伝わってきます。

 

さてここで、実際のモーツァルトがどのような人だったのか、見ていくことにしましょう。モーツァルトが生まれたのは1756年、日本は江戸時代の頃です。生まれはオーストリアのザルツブルグ。その頃のオーストリアはハプスブルク家がおさめる帝国でした。ハプスブルク家出身の有名人物にマリー・アントワネットがいます。彼女はフランスの王様ルイ16世と結婚してフランスに行ったのですが、そこでフランス革命にあい、処刑されてしまうのです。このマリー・アントワネットとモーツァルト、年齢も同じくらいで、子供の頃のモーツァルトが幼いマリー・アントワネットに向かって「僕のお嫁さんにしてあげるよ!」と言ったという話が残っています。ん?モーツァルトとマリー・アントワネットは知り合いだったの?この時代、モーツァルトのような音楽家たちは皇帝や王侯貴族に雇われ、彼らの注文の為に音楽を作曲していました。貴族達は音楽を聴いて楽しんだり、または、式典において場を盛り上げたりするために音楽を使っていました。いわば、マリー・アントワネットはモーツァルトの雇い主。この逸話は、無邪気な少年モーツァルトというだけでなく、本来ならば声をかけられるような高い身分であるはずのお姫様にきわどい冗談を言うという、当時の社会体制を飛び越えていくモーツァルト、というイメージが織り込まれているのです。そもそも子供のモーツァルトがどうしてお姫様と一緒の場にいられたか。それは、モーツァルトの父親、レオポルド・モーツァルトというのですが、レオポルドが音楽家であり、彼がハプスブルク家のために音楽を演奏する機会があったからでした。その場に、まだ子供だったモーツァルトを連れてきたのです。なんのために?どうですウチの子供すごいでしょこんなに上手くピアノが弾けるんですよ、と言う為でした。それじゃ単なる親バカですが、レオポルド、もちろん単なる親バカではありません。レオポルドは気がついていたのです。自分の子供、ヴォルフガングが、尋常ならざる才能を持った天才だということを。

 

モーツァルトの天才ぶりを語る言葉はたくさん残っています。その才能は既に子供時代から発揮されていたものでした。ピアノを上手く弾くのはもちろんのこと、他の人がとあるピアノ曲を弾くのを一度聞いただけで、音を一つも間違えずに自分の記憶だけをたよりに完璧に弾くことが出来ました。作曲も始めると、色んな決まり事をすぐにマスターしていって、どんどんと作曲していきます。その曲は非常に素晴らしいものでした。まさに天才でした。確かに、多くのモーツァルトの曲は天真爛漫な美しさと無邪気さ、自然さに満ちあふれ、苦労して書いたというイメージがわくものでは全くありません。実際、モーツァルトは非常に作曲が早く、なかには短い曲だったら一晩でオーケストラ曲を書き上げてしまうものもありました。ではモーツァルトの全ての曲は、そんな風にあっという間に短時間に書かれてしまったものなのでしょうか?いえ、そんなことはありません。モーツァルトにも、悩んで、苦しんで作り上げた曲があったのです。それらは、当時既に大作曲家として尊敬を集めていたヨーゼフ・ハイドンに対して捧げられたものでした。その説明に、小林の文章を借りることと致しましょう。

 

「1782年から85年にかけて、モオツァルトは、六つの弦楽四重奏曲を作り、これをハイドンに捧げた。献辞のなかで、「これらの子供たちが、私の長い間の刻苦精励による結果であることを信じていただきたい」と言い、「今日から貴方のお世話になる以上、父親の権利も、そっくり貴方にお委ねする。親の欲目で見えなかった欠点もあろうが、大目に見てやっていただきたい」と言っている。ー略ーこの六つのカルテットは、およそカルテット史上の最大事件の一つと言えるのだが、モオツァルト自身の仕事の上でも、ほとんど当時の聴衆なぞ眼中に無いような、きわめて内的なこれらの作品は、続いて起こった「フィガロの結婚」の出現よりはるかに大事な事件に思われる。僕はその最初のもの(K.387)を聞くごとに、モオツァルトの円熟した肉体が現れ、彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚えるのである」

 

さて、交響曲40番です。まず、交響曲とはなんなのか、簡単にご説明しましょう。基本的な形としては、オーケストラだけで演奏され、固まり、楽章というのですが、幾つかの楽章で構成されています。基本的なのは楽章が四つのもの。この40番もそうですね。40番とは、モーツァルトが40番目に作曲した交響曲なので、交響曲第40番と呼んでいる訳です。この交響曲というスタイル、最初はもっと小さな、シンプルなものでした。その始まりはオペラの序曲となります。歌を歌いながら演じられる劇、歌劇、オペラといいますが、このオペラはかなり古くからヨーロッパでは楽しまれてきました。このオペラ、歌による芝居が始まる前に伴奏のオーケストラだけで音楽を演奏したのですね。その音楽の間に幕がするするするっと上がっていって、歌手が登場して劇が始まります。このオーケストラだけで演奏される序曲ですが、オペラではおまけにすぎないのですが、オーケストラだけで演奏される音楽も魅力的なんじゃないの?と思う観客が現れ、オーケストラだけで色んな音楽が表現出来るんじゃないの?と思う作曲家が現れ始めました。こうして少しずつ、オーケストラだけで演奏される交響曲というものが発達していきました。複数の楽章を組み合わせて、全体の長さもどんどんと長く、複雑なものになっていきます。オペラのように華やかな歌手が出てきて拍手を浴びることは無いですが、代わりに、作曲家は自分の作曲技法を交響曲の中で思う存分に発揮するようになっていきます。この交響曲のスタイルを決めたのが、さっき出てきたハイドンです。ハイドンが決めたスタイルに従って、モーツァルトも交響曲を作曲していきました。

 

しかし、モーツァルトは、まさにこの40番において、ハイドンのスタイルを大きく飛び越えていこうとします。それは何か?モーツァルトは何を使ってハイドンを飛び越えようとしたのでしょうか。それは、悲しみ、でした。この40番は何処か暗い、俯き加減の表情を持っています。明るく元気いっぱい!という音楽ではないことは聞いていただければすぐにお分かりになることかと思います。そうした明るいものではないイメージを持った音楽は、この時代、異例のものでした。しかしモーツァルトは作曲しました。そしてこの曲は小林秀雄のように、聞いた者の心を揺さぶるような音楽となったのです。そしてこのモーツァルトを受け継いだのが、ベートーヴェンでした。交響曲はより複雑になり、長く、大きくなりました。作曲家の伝えたいメッセージ、そのイメージをオーケストラで伝えるにはどうしたら良いのか、ベートーヴェンは生涯にわたってそのことをずっと考え続けた作曲家でした。さて、モーツァルトに戻ります。モーツァルトの音楽の中でも、こういう暗いイメージ、影を持った音楽は多くありません。モーツァルトの他の曲は華やかで明るいものです。その分、この40番のイメージは鮮烈なものとなりました。後世の作曲家は、このモーツァルトによって切り開かれた表現でもって、人間の感情を、人間そのものを音楽で深く掘り下げようとしていくのです。これが、ロマン派となります。ロマン派の出発点として、このモーツァルトの交響曲第40番はあるといっても間違いではないでしょう。

 

では最後に、小林秀雄のこの言葉を紹介させてください。

 

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うら)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。まるで歌声のように、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、よけいな重荷を引きずっていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極あたりまえな、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない」