作品解説

第5回演奏会

2013年4月6日(土) 18:00開演


ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893):ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35 (1878)

チャイコフスキーのパトロンとして知られるナジェージダ・フォン・メック(1831-1894)は、ドイツ系ロシア人で鉄道建設により財を成した富豪、カール・オットー・フォン・メック(1821-1876)の妻であった。夫の死後莫大な遺産を手にした彼女は、幼い頃から音楽などの芸術に触れていたということもあって、チャイコフスキーのみならず様々な芸術家への経済的支援をおこなったことで知られている。


1877年から始まったメック夫人の援助によって作曲に専念できるようになったチャイコフスキーは創造力を大きく飛躍させ、その最初の成果である「交響曲第4番」(1877-78年作曲)を、感謝の意を込めて彼女に献呈した。また、交響曲第4番の初演直前にはプーシキンの韻文小説を原作としたオペラ「エフゲニー・オネーギン」を完成させるなど、チャイコフスキーの創作は充実の極みにあったと言っていい。 

 

18784月、スイスのジュネーヴ湖(日本での通称はレマン湖)畔のクラランという小さな集落に滞在していたチャイコフスキーのもとを、ヴァイオリニストのイオシフ・コテック(1855-1885)が訪ねてきた。コテックはパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)の独奏で1875年に初演されたエドゥアール・ラロ(1823-1892)のヴァイオリンと管弦楽のための「スペイン交響曲」(ヴァイオリン協奏曲第2番)の楽譜を持参しており、チャイコフスキーは1ヶ月ほどのクララン滞在中にこの作品の研究をおこない、コテックからの意見もふまえて「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」を作曲した。 

 

チャイコフスキーは、この作品をペテルブルク音楽院教授で優れたヴァイオリニストでもあったレオポルト・アウアー(1845-1930、ハンガリー出身)に送り意見を求めたが、アウアーは「演奏不能である」として初演の依頼を拒んだ。一説には、否定的な意見を述べたアウアーに対しチャイコフスキーが初演の依頼を取り下げたとも言われる。

 

初演は1881124日、ロシアから遠く離れたハプスブルクの帝都ウィーンにおいてロシア人ヴァイオリニスト、アドルフ・ブロツキー(1851-1929)の独奏、ハンス・リヒター指揮ウイーン・フィルによっておこなわれたが、指揮者とオーケストラが作品に理解を示さないまま演奏に臨んだ結果、惨憺たる出来に終わった。ウィーンの有力な批評家のひとりであったエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)が、「悪臭を放つ音楽」と悪罵の限りを尽くして評したのは、この作品にまつわる有名なエピソードだ。ハンスリックは反スラヴ主義者でもあったため、殊更否定的な評をおこなったとされている。

 

だが、周囲の無理解にもめげずブロツキーはこの作品を演奏し続けた。それによって次第に評価は高まっていき、ついにはアウアーもこの作品を演奏するようになった。名教師アウアーの弟子にはヤッシャ・ハイフェッツ、ミッシャ・エルマンといった名ヴァイオリニストがいるが、師から教わったこの作品を彼らが繰り返し採り上げ、更には録音をおこなったことにより、ロマン派以降の最も偉大なヴァイオリン協奏曲のひとつに数えられるまでに至ったのである。

 

なお、当然の事ながら作品は初演者にして普及の功労者であるブロツキーに献呈された。


セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873-1943):交響曲第2番ホ短調 作品27 (1906-1907)

      

幼い頃から音楽の才能を発揮し、モスクワ音楽院で学んだラフマニノフは、チャイコフスキーやアントン・アレンスキー(1861-1906)、セルゲイ・タネーエフ(タニェーエフ、1856-1915)といった「モスクワ楽派」の大家たちから薫陶を受け、音楽家としての人生を順調に歩んでいた。

 

しかし、1897年に彼は大きな挫折を味わうことになる。「交響曲第1番」(1893-95年作曲)315日にアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)の指揮で初演されたとき、それは音楽史のなかでもブルックナーの交響曲第3番(1877、ウィーン)やストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」(1913、パリ)などと並ぶスキャンダラスな出来事となった。

グラズノフは作品に全く共感しておらず、極めて散漫な指揮に終始していたと言われる。演奏が終了すると聴衆から野次や罵声が浴びせられた。さらには「ロシア五人組」のひとりで有力な批評家でもあった軍人にして作曲家セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918)から「地獄に音楽院があるのならば、こういう作品を書かされるのだろう」「貧困な主題…歪んだ音律(リズム)…病的な和声…全体を覆う憂鬱」と完膚なきまでにコキおろされた。

 

精神的に深いダメージを受けたラフマニノフは、その後全く作曲に取り組めない時期が続き、その間は私設オペラの指揮者を務めたりしながら日銭を稼いだ。そこで知遇を得た同い歳の名バス歌手、フョードル・シャリャーピン(シャリアピン、1873-1938)とは深い友情で結ばれ、生涯の友となる。

創作については、神経科医ニコライ・ダーリ(1860-1939)の数ヶ月に及ぶ暗示療法などによって回復できた…と言われている。ダーリの治療がどれほどの影響を与えたかについては、現在では疑問視する向きも多い。ダーリの治療行為から1年以上も経過してから「ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18(1901)を作曲している、というのが理由のひとつであるが、それでもラフマニノフにとっては「恩人」という思いが強かったのであろう。「ピアノ協奏曲第2番」はダーリに献げられた。

1902年に従妹のナターリヤと結婚し、翌年には長女が誕生。この時期は、公私ともに幸福の極みにあった。

 

1906年秋から家族と共に滞在したドレスデンで「交響曲第2番」の作曲は進められた。それでも「交響曲第1番」の失敗が彼の頭を離れなかったのだろうか…作曲の筆は遅れ、完成を見たのは1907年末だった。初演は翌1908126日、ペテルブルクのマリインスキー劇場(ソヴィエト時代と、ソ連崩壊後しばらくはキーロフ劇場と呼ばれた)において、ラフマニノフ自身の指揮で行われ、大きな成功を収めた。

一部の批評家は作風が保守的であるとか、アメリカの映画音楽のようだなどと批判したが、もともとペテルブルクが「ロシア国民楽派」の本拠地であり、ラフマニノフが学んだモスクワとは音楽に対する考え方で相容れない部分があるためとも言われている。しかし、多くの聴衆はその壮大なロマン的交響曲に酔いしれた。

 

全曲で1時間以上に及ぶ大作であるために、ラフマニノフの生前から一部をカットして演奏することを作曲者自身が認めねばならなかった。また、不要と思われる部分に打楽器による装飾音を付することも慣例になっていた。一部の地域では今も装飾音付きの演奏をやっているようであるが、1973年にアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団がオリジナル通りの「完全全曲版」をレコード録音して以来、世界的にカットなしのオリジナル版で演奏する傾向にある。


©藤本崇